33回    2009Oct.01     金子信造

 

「身体図式」の高次元化

 

 剣・杖の稽古を定時の稽古後、有志で行っている。例えば正面打でいえば、正対して互いに正中線に沿って切り下ろす、鎬を削る稽古では、通常、怪我予防のため互いの身体に剣が届かぬ、物打部が交わる間合いで行っているが、ときに顔面すれすれの寸止めで行うこともある。現在の葛飾では、田村健一君や一条雅子さんが他の人達とこれを行えば、彼らの剣は確実に顔面を捉えるが、他の人々の剣は鎬で切り落とされて、彼らの身体の外へ流れ、その延長線上で彼らが切られることはない。木刀を持っても、棒振り、チャンバラ段階の人からすれば思いもよらぬ不思議の感であろう。正面打の身体図式が出来たからである。自転車に乗れる前と後、タイピングでブラインドタッチが出来る前と後では身体図式の次元が異なる、そしてそれぞれのさらなる上達は出来るようになってからでなければ不可能なのである。

 剣の操作について、前回まで身体の各器官とその機能の概括をし、中心軸の意識とこれに関与する腸腰筋と脊椎(とくに腰椎)に統御された全身の協調構造が生み出す「はたらき」、すなわち身体内部に軸をつくることによって、身体の外側の筋肉群の無駄な力みをつくりだす身体意識を開放し(ブレーキをはずし)全身のリラクゼーション状態が生み出される。手で切り下ろすには肩甲骨の滑らかな回転、脚なら大腿四頭筋ではなくハムストリングスで無駄な力み(ブレーキ)なく立ち、動けるようになることである。

 前回で剣の振りかぶり、切り下ろしについて取り上げたが、これが出来ると例えば、取りと受けとが正対して、取りの右手首を受けが制しようとして、片手もしくは双手で執りに来た場合、取りが受けの力に逆らわず、右踵を軸に背転すると、受けは取りに追随して腰が伸びつま先だってくる、これをSL(蒸気機関車)のクランクアームと動輪の比喩でしてみると、取りの腕をクランクアームとすると、これにかかる力はクランクアームを介して動輪を回す、この場合動輪は肩甲骨であるが、受けの力は動輪を回すことで、抵抗なく肩甲骨の回転運動に吸収され、取りの背転とともに前のめりにつま先立ち、受けの重心はその丹田から前にはずれる。肩甲骨はさらに回転し、クランクアームは押し上げられ、受けはつま先立ちのまま立ち上がり、腰は伸びのけぞって、受けの体重はつま先に集まり、取りの手首でかろうじて身体を支える状態となる。受けにすれば取りの腕は押しても引いてもクランクが遥動し、雲を掴むような頼りなさで、受けは自分の体重は自分で支えるが、力は取りに吸い取られ体の操作は取りに全てを委ねるという、取りの合気にとりこまれてしまう不思議を体験することになる。

 手や足の動きは外から見え、意識しやすいが、これを協調させ統一しているのは身体内部ではたらく中心軸意識である。四方投げで受けの中心線を捉えもせずに腕を足元に切り下ろすとか、入り身投げで受けの背部へ入る転換足に腕をひきつけると言っているのを聞くことがあるが、入り身で切り下ろす手刀は丹田下にであって、外回りしている脚を追ったのでは取りの中心軸から外に外れ、受けの重心を丹田に収め取って制御することが難しいし、それが臍で背中を見る位置まで入り身できず隙間を作る原因にもなる。手刀でも、剣でも丹田下に充分下げるには、ゆるめられた肩甲骨の外放が必要である。肋骨と肩甲骨がひと固まりだと肩甲骨は肋骨の上を滑ることが出来ないで充分下がらない、分化して使わなければならない。剣道でも初心のうちは拳が充分下がらない人が多い。

 崩すということは、相手の重心を丹田から外させ、取りの意のままに制御することである。触れ合いの瞬間にはずさないと、引き続いての動きの中では、まず外せない。出来なくはないが結びなおし、やり直しになり柔道の乱取りに近くなる。合気道の稽古法としては下策である。合気の身体図式が出来ていないうちは、動きの流れの中ででは馴れ合いでなければまず受けの重心は外せないと思うべきである。一つ一つの技でまず触れればむすび、制御することを身につけることである。

 中心軸意識なしには、技は技としての内容のない外形にすぎないこととなる。

 

 自転車に乗れれば、曲乗りだって目指せるが、乗れなければ、単なる上達だってありはしない。乗れないうちは、ペダルの踏み方、ハンドル捌きなど言われてもできないから言う意味もない、乗れるようになった時には、それらは出来ていて言われる必要がない。さらなる上達は乗れてからである。

 どんな技芸も本物を目指すなら「身体図式」の新たな次元への転化、「根切り」が必要である。

 

実技演習

一教各種(正面打、片手取り、交差取り、横面打、後ろ取り等)


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