27回  2009Apr05.    金子信造

 

8.合気道の基本動作

 @構えと気むすび

『構えは相手に対して立つ自然体からの足の出し方によって「左構え」「右構え」となる。…左構え 左足を約半歩前に踏み出し、半身に構える。…上体の重みは自然に両膝に平均にかかり、重心は両足を結ぶ線の中心に落ちる。体は固着することなく、全身柔軟な状態を持続し、いかなる変化にも応じ得る態勢でなければならない。次に腕は普通中段に左手を持し、右手は下段に持する。

 両手の指先に力を入れ、五指を開いてのばし、合気道独特の手刀の形にして構える。

 こうした態勢を「三角体」という。

 三角体は、最も安定した、いわゆる正三角四面体の態勢であって、この中心を軸にして回れば容易に球体を描き得る。』(「合気道」創始者道主 植芝盛平監修 道場長 植芝吉祥丸著 光和堂 P89

 『合気道における力の使い方は、先づ第一に肩、首等上半身の力を全く抜き、臍下丹田に気力を充実すること、第二に手を開き五指を張って指先に力を入れる、ということである。指先に力を入れるのは、自然に重心を下げ、全身を硬直から救うことを意味している。』(前掲書「合気道」p9899

構えあって構えなしともいうが、修行が進み臨機の態勢がとれるならば構えなどないほうが、どこにも囚われのない理想の無構えもできよう(開祖はそう仰っておられる)が、そこに至らない我々は相対すれば半身に構えるのが常道である。ここから相手の攻撃線を外し相手の側面(死角)に円く入り身するのである。この円の積みかさねが球体である。

数ある動物のなかで、人間が特異な発達をしたのは、二本足立をして前肢を移動運動器から解放し、手を環境加工器としたことである。これを伸筋主導で使いこなすことが技への 第一歩である。何回も言ってきたので詳しくは繰り返さない。両手の5指を伸ばし、臍下丹田からの気を指先から宇宙の果てまでも迸らせる意識で使うことは、私の入門当時は随分繰り返し指導されたものだが近頃あまり言われてないように思う。そのため片手取りで手首をとらせるや、指先を丸めたままだったり、掌を内側に折り込んで力んだりして指先からの気が出ていない人が多数見受けられる。まずは素直に指先をのばし気を発することを意識しやがて無意識でも常に気を出しているようにならねばならない。例えば一教の裏でわが腕を差し伸ばして抑えるべきところを、相手の腕を引き倒そうとしているのをよく見かける、このように気を出す意識がないといつまでも「むすび」ができないで、技が動きの外形だけになって、物まねのなぞりになってしまう。

この一教の裏では、受けの腕を引き下ろそうとすると、受けが取りに調子を合せて倒れてやろうと考えていたとしても、引かれる方向に肩を寄せてゆくと受けの体は立ち上がりの方向に動いてしまい、取りの態勢がくずれてしまう、ここで受けが立ち上がってしまえば形勢逆転である。また四方投げで、触れ合いの瞬間に取りが指先から気を出して振りかぶれば、受けは崩れのけぞって、足は前進できず取りの転換に随って後退するのだが、受けが崩れていなければ半歩<仮に半歩と言っているのであって2.3歩でもよい┄二代道主>前進して取りに合気をかけ得る状態となり(開祖はこれを<物理的━金子補字>速さでなく気の活動の速さと仰っている)、返し技へとつながる。

重心につては、ここでは必要なことは今までに述べたことで足りるので繰り返さない。

 『斯道の鍛錬においては、立ち技があれば必ずそれに対して座技があり、座って自由自在に変化できる体の動きが完成すれば、立ち技においてはそれ以上に重心のきまった独楽 のごとき変化をしても全く動じないようになる。

昭和初年頃における合気道の稽古では、初心者に対しても、…腰の鍛錬のため座り技を一ケ月も二ケ月も連続して、道主に要求されたものである。』(前掲書「合気道」P100

『「気の変化」とは、自由自在に体を回転し、技法をこなすための、基本的動作である。…また、手の捌きが重要であって、両手刀を振りかぶる時は…指先に力を入れ、息を吸い込みながら大きく螺旋状に振りかぶる。

この力の出し方は、合気道では最も重要な鍛錬法で、手刀を振りかぶる途中も…体全体の力を素直に出すことが第一要件である。尚振りかぶる時は親指に力を入れ、下ろす時は小指に力を入れつつ下ろす。』(前掲書「合気道」p103108

人間は肩関節はグルグル回せ、手首、肘とも回内、回外運動ができるが、腕を上げるとき回内のままあげると止まってしまうところがある(位置には個人差がある)。回外してあげると楽に上がる。刀(手刀も)の振りかぶりは腕を回外してあげる。振り下ろしは回内である。  

この腕の振りかぶり振り下ろしに伴う外まわし、内まわしを螺旋運動と言っている。これと振りかぶり時の吸気、振り下ろし時の呼気、それと丹田力の発出の関係を「古事記」を引用して開祖はしばしば説明しておられるが、聞き手にとって八尋殿の天の御柱の周りを右旋、左遷する神話の物語とだけ受け止められがちで、取と受けとの螺旋の相互関係の構造が「むすび」の原理の一つであることが見えないでいることが多いように思われる。合気道の技はこの「相互関係の構造」が『一分一厘間違ってもならない』と開祖が仰っておられるのである。これについては技の各々について各論でしなければならない。

今回、取り上げた一教、四方投げの例にしても、外形が似ていても「むすび」がなければ合気道の技でないことは明白である。「基本の稽古」とは技の中で「むすび」を活かすことを学ぶことである。特に技の構造の中でも最適の間合い、拍子を感得し体現できるように修行することが大事である。

岩間時代に開祖は「60年の固い稽古で、今のわしがあるのじゃ」、「今、わしがすることを形だけ真似してはいかん、もっと基本をがっちりやりなさい」、「(固い稽古ができなくて)君たちに何ができるのだ(なにも出来はしない)」(「植芝盛平と合気道」、合気ニュース)

受けに調子を合わせて貰っての稽古では、動けないところ、動かせないところが分からない。動きづらければ技になっていないのだから、反省して動けるところを探ってゆかなければならない。そもそも受けの態勢は取りに導かれて決まるのであり、取りにとって不都合な姿勢だとしてもそれは取りが創り出したものである。危険防止のため受け身の仕方を受けに指導することはあるが、取りが動きやすいようにするためではない。合気道は、どんな暴力が立ち向かってこようとも導いて和すのである。ついてきてもらっても導けなければ意味がない。導くというのは取りの主体性によってできることであって、馴れ合いではない。かつての岩間では流れの稽古は三段以上(現在なら、五、六段に該当するだろうと思う)となっていた、基本ができないうちに流れの稽古をしていては、結局はいつまでも技が身につかないばかりか、身につけられなくなる。そこで開祖は『時々癇癪を起されて、「お前らがやっているのは合気道じゃない」って怒鳴られた』(「植芝盛平と合気道」合気ニュース)

 

実技演習

片手取り一教     片手取り二教

片手取り四方投げ   片手取り入り身投げ

 

                                     了



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