15回   2008.Feb.07.         金子信造

 

実技演習

一教

一教に就いては、何回も稽古しており、型の外形については、説明を繰り返さない。ここでは、ほぼ共通して見受けられる、くせ━━日常動作からくる、技につながらないうごき━━について取り上げる。

正面打ち一教の表技では、取が右半身で、受けの右半身からの攻撃に応じた場合、取は右手刀で受けの右手首を制し、左手は受けの右肘上部を曲池に親指を差し込むようにし、小指、無名指で掴み、その肘を受けの太陽穴にすりあげ気味に打ち当てる(口伝━太陽伝。顔にブッカケル、中心軸を捉えよという意味)、受けは丹田から重心が外れ、大地からの対抗力を失って、受けの重心は、取の丹田に吸収されて、崩れる。この崩しでは取の丹田は、受けの中心軸に向いているのであるが、受けの中心軸を捉えていないと、取は受けの右横に並んで、取りも受けも、ともに丹田を前方に平行に向けてしまう。受けの重心は丹田を外れず、前傾姿勢になったとしても、対抗力は失われない。そこで取は受けの右腕を筋力で、大抵はくの字にねじり上げて押さえつけようとする。受けが取りよりも非力ならば、効果的な押さえである。それが、この方法を技であると錯覚させる要因である。

受けが、前傾姿勢から腰を落して自己の重心を丹田に収めて、肘を下げ腕を螺旋に突き上げれば、取りは浮き上がって、取りの重心は丹田を外れ受けの丹田に吸収され、対効力が失せて受けの操作に牛耳られる事となる。そもそも受けの体力が取りに勝っているなら、ねじ伏せる事などできはしない。

一教裏技には、操(双)輪の口伝がある。受けの中心軸に取り付けられている輪(この例では、受けの右腕)を、自動車のハンドルをきるように、操作することである。取りは自己の中心軸を安定させ(口伝━スミキリ)、受けの重心を丹田に収めとって円く操作する。これも受けの重心を捉えられないと、受けの腕を直線的に引き伸ばしてしまうだけで、受けの体幹は、引かれる腕への力が間接的にかかるだけで、ほとんど影響されないから、腕をひねり上げるような力業になってしまう。操輪はそうならぬよう、中心軸を捉えるコツを云っている。

崩すということが、受けの重心を、その丹田から外し、対抗力を失せさせる事であることを、身体で納得しなければならない。

私は、開祖をはじめ、清野先生や、山口先生その他、口頭で教えられたことを口伝として書き留めてきているが、これらは多分に比喩的であるが、直感的にコツを伝えるものだと思っている。今回は太陽伝、操輪を取り上げこれを稽古する。今回はこの他に、これらの技の基体というべき神楽舞い(運足法)、丹田から直接生えている腕、天の鳥船の行(前進に伴う、腕の丹田力による力みのない振りかぶりと重力による振り下ろし)という操身法に関する口伝を披露する。これらの会得には、五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)の他に体性感覚(位置や動きの感覚と力や重さの感覚)そして平衡感覚を養わなければならない。要するにこれまで述べてきている吊身、運足法、(触れ合いの際の)呼吸法etc…の統合された操身である。

合気を知らない者から見れば同じようにしか見えない動きも、技と力業、これは雲と泥ほども違う。この差(けじめ)が見えないと嘗て嘉納治五郎を「今日の柔道は、私の柔道ではない」と嘆かせたように技に外形だけ似ている力業化してしまう。

力業でも体力が同等以下であれば普通よりも制御に効果的な方法というものがあるので、とかくこれを技と取り違いやすい、だが技は自分を上回る体力のものを制御できてこそ技であることは見やすい事である。力業を技と見誤って稽古すればするほど、それが身に付いて「くせ」となる。一定の年齢を迎え体力が落ちればもはや子供にも通用しない方法である事があらわになる。

私は武道書は以前から玉石混交、なんによらず集めているが。書かれている「わざ」の動きが具体的に分からないものが随分多い。私はせめて私の書く事が、そのまま動いてみて、動けるように書こうと努めている。けれど技は、主体である術者の動きによる働き、そのものであって、書かれたことは、それの抽象でしかないには違いない。そうではあっても、つまりそのままが技ではなくとも、せめて書いたように動く事ができるように書きたい。それがやがて技となるように書きたいと考えている。皆さんがそんな観点からも批判的に読んで、意見を寄せてくれる事を期待している。    

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