10回     2007.Sep.6              金子信造

古事記、日本書紀以前の漢字渡来

 古事記の撰述がなったのは西暦712年、日本書紀が西暦720年、その百年前に聖徳太子が「憲法十七条」を書いている。中国から仏教が渡ってきて筆で紙に写経したのは、更に百七十年前、朝鮮から王仁が「千字文」壱巻、「論語」十巻を持ってきて、儒教を伝えたのは、「古事記」より三百年前である。

 「魏志倭人伝」には卑弥呼時代に文字を使ったとあるから、「古事記」より五百年前には漢字は列島に渡来していた。

 つまり無文字時代にいきなり歴史書というか、文学作品が出来たのではなく、記紀には、すでに陰陽五行説や仏教、儒教、道教等の思想的反映が認められることは、国学、歴史学、民族学等各分野から指摘されている。

 

大和民族

 大和朝廷は三世紀半ばに、奈良盆地の東南部にある三輪山の麓を勢力圏としていた一族によって生まれた。纏向(まきむく)遺跡は、初期の大和朝廷の本拠あとである。大和の地名は三輪山の麓一帯のみだったのが、四世紀末までに奈良盆地の要地も支配下におき、この時点ではこの王(きみ)も各地の豪族の王(きみ)と大して変わらなかったが、五世紀末には東北地方南部から、九州地方中部におよぶ地方豪族を支配下におき大王(おおきみ)として、地方の王(きみ)を統べるものとなり、六世紀には北九州の磬井の反乱を最後に地方豪族は大和朝廷の支配を脱せなくなった。こうして大和は日本全体の呼称となった。

 大和民族を言語の共有、同族意識をもった社会集団あるいは構成人種の同族性などで定義できようが、そうするとそれら観点の違いによって成立時期は異なってしまう。

 大和民族(日本人)の起源はまだ解明されてはいないが、「古事記」撰述のときまでには日本列島に住む民族(東北北部以北の蝦夷を除く)を渡来人、帰化人も包摂して大和民族としてよいだろう。

 ちなみに日本という国号、(大王から)天皇という君主号が生まれたのは、ともに飛鳥時代(630694年)である。

 

上代の風土と文化

 「個人としては生活が容易であり、民族全体としては外部から異民族に圧迫されることもなく、内部においても激しい闘争が起こらず、その上、山や川も概して小さく優しく、気候風物も温和であって、民族生活の上に抑圧を加えるような強烈な自然の現象も無い。水蒸気が多いので、草木が繁茂し農耕を利する。地域によっては時に地震があり、また幾年かに一度は台風に襲われるところが多いが、まれに起こる事変は生活を脅かすことが少なく、しばしば遭遇することは常態視せられるので、共に民族の性情に大いなる影響を与えない。・・・人生に満足しているから、この現し世を超越した境地があるとは想像しない。要するに素朴な楽観主義の民であったのである。・・・自然界の事物の脅威を感じ至るとこ ろに存する精霊のはたらきを恐れていたが、それは呪術的祭祀的儀礼の力によって防ぎも除きもせられるので、かかる楽観的気風の発生を阻止したりそれを動揺させたりはしなかった。のみならず、公共的集団的に行なわれる場合のかかる儀礼には、おのずから歌舞や饗宴の行動が伴い歓楽の空気が醸し出されるので、そこにこの気風と契合するところもある。

 生活が容易であることが・・・一般民衆に・・・地理的に他の文化民族との接触の機会が無かったこともあって・・・新しい事物を造りだそうとする意欲を妨げた気味がある。・・・ 

 シナの文物を採取したのは政府の事業としてであり、・・・まずそれを利用したのは朝廷および貴族であったために、その文物を主なる要素として形づくられたわが国の上代の文化がおのずから貴族的性質を有するようになった・・・一般民衆は概ねその圏外にあった・・・それがために貴族豪族の生活と民衆のそれとの間の懸隔が生じまたは大きくなってきた。」(「文学に現われたる国民思想の研究」第1巻、津田左右吉著、岩波書店p2324

 上代というのは、慣例にしたがって奈良時代および奈良時代以前であるが、我々、日本民族の原点を成す時代と想われる。

 

復古神道

 紀元前三世紀ごろの縄文晩期、弥生初期から始まる稲作りの農耕社会成立ころ日本の宗教として神道の基本形ができたといわれる。

もともとの土着の神の信仰があったであろうが、記紀神話がそれだとする訳にはいかない。記紀神話は外来思想とりわけ仏教思想とすでに深くかかわり、これらの神々は仏との交渉のなかで生まれてきたのである。(参考書;「日本の神道」津田左右吉著、岩波書店。「日本仏教史」全十巻、辻善之助著、岩波書店)

 自分たちのカミマツリを‘あげつらい’、‘ことあげ‘した伊勢神道、そして’こじつけ‘の吉田神道、’からごころ‘の儒家神道などをへて江戸時代の後期にこれら多分に牽強付会的な神道の、古典に対する解釈を批判して、本居宣長が学的研究(国学)による、記紀とりわけ「古事記」の真精神の探求をし、復古神道を形成した。

 

 以上、開祖の遺教の理解のために上代についての常識を共有するための、駆け足での日本人の精神の源風景の素描を終えるが、できれば理解を深めるために、日本仏教が、本来の仏教が「悟り」の探求の宗教であることからは遠い現世利益の宗教としてほとんど推移してきた理由、つまり中国仏教がすでに道教的に変質した宗教になっていたこと。また、そこからの伝播が冊封体制下で行なわれたこと。仏教は民衆ではなく、中国皇帝から各国王、貴族への下賜として伝播した(日本は百済国王から天皇への贈り物として渡ってきた)など。さらに上代については邪馬台国問題や神代文字などアマチュアが論陣を張っている領域もひろく(学会がこれらを受け付けないことにアカデミズム権力思想などと不満気な論調もあるが、おおむね考古学的事実をもって論証できない以上単なる素人談義にすぎない)面白がって深入りする人がいるけれど、むしろ縄文文化は弥生文化に包摂されてゆくが、弥生文化を準備した文化でもあったこと、縄文文化遺跡の8割が東国であったこと、東日本の落葉広葉樹林(ナラ林帯)と西日本の照葉樹林帯の植生の違いが文化の違いを生んでいたが、弥生文化が北九州を始めとする西日本で水田耕作農耕をはじめ金属や、土木技術など、新しい文化要素を大陸から受け入れて形成されたけれど、弥生文化を生み出した主体はあくまで縄文時代以来の文化の伝統であるという主張が有力である。例えば米については登呂遺跡で一人あたり推定一日2,2合(良好すぎる例)、津島遺跡で1,3合消費可能であったと推定されるが、これは食料必要量の約半分にすぎず、縄文時代からの畑作や有用植物の採集や半栽培が盛んで、漁労や狩猟も行なわれ、これらは後世まで廃れず、日本文化を形成してきた。こうしたことを「岩波講座日本歴史」1,2巻などの基本図書その他の学術的文献によって各自理解を深めて欲しい。

 また伊勢神道以下の各神道の説はいま直接所論に関係ないので省略する。

次回は宣長の古語研究を見てゆこうと思う。

 

実技演習

 開祖の遺教を読み解こうとし始めている今、先取りになってしまうが、合気道がこれまでの古武道とも、現行の他武道とも違う真武道であることの一つは、その稽古法にある。

  古武道での型稽古でも柔道、空手の型稽古でも取と受けとの約束で、受けは逆らわずに取の攻撃に制せられる。どうしてもこれは一種の演技になる。乱捕りや実戦的試合となると、型のように制せないから力づくになってしまう。

  合気道では相対して、触れ合えば産霊(ムスビ)するのである。これを型で学ぶが、この型は実戦とまったく同様にムスブのである。受けが故意に制せられるのではない。従って型稽古と乱捕りと別々の稽古法があるのではない。(術理を求めるとは心身の自然を現成するためである。無理な頑張りをするのではない、重心を奪われてもいないのに、受けが自分から故意に崩れるのでは、取も受けも共に稽古にならない。心身の自然を大事にした稽古でありたい。稽古と実戦は一如なのである。)学ぶための手がかりとして技とよぶ身体操作の手順をかりるが、これはその動きの中でムスビを自得するための方便に過ぎない。つまり多くの動作の中からムスビの学びやすいものを選んで技といっているのである。ムスビもなしに体の動きの手順、手足の位置など云々しても意味は無い。

  片手首諸手取り呼吸法他

取は片手を受けの胸元に差し伸ばす、受けは諸手で、取の動きを制するよう取の手首を取る。取は触れてきたら呼吸とともに受けの重心を我が丹田に吸い収める気で三角に入りつつムスビ、手刀を振りかぶり、ついで体を受けに向き合うように転換しながら、息を吐きながら受けの正中線を切り下げる。肩が上がらぬよう力まず行なう。       



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