第7回   2007.june.7          金子信造

 デカルトは「方法序説」で「われ思う故にわれあり」つまり全てを夢まぼろしではないかと疑っても、そう思っていることだけは疑えない、明らかな真である。思う私という実体が存在する。私即ち主観と私の外なる客観に二分し主観客観図式を作り上げた。

 しかし疑えないのは、「思っている」ことであって、論理的には「私は思う、だから“思い”は存在する」のであって、“私”が存在するのではない。西洋では理論theoryはギリシャ語の観照テオリアに由来し、対象を外から眺めることだから、眺める私がいるのは当然だという伝統思想があった。東洋では老荘(道教をこれに混在させている武道書が散見するが別物である)の無や仏教の無我の思想があり、そこでは精神現象といえども実体(それ自身のみで他を頼ることなく存在するもの)としての私の存在は否定されている。

 

老荘思想(道家BCce

@     老子

老子は万物の根本となる真理を「道」と名づけるが、「一」ともよぶ。一とは、分けられないもの(万物斉同)、差別(分けて知る)を本質とする知識によっては理解することが不可能なものである。人間を心と身に分けるのは相対差別する人為に他ならない。

 天は、世界を満遍なく支配する働きであり、そこには、どこにでも通じ、だれでも必ず歩き、歩かなければならない「道」がある。この道は限りがなく、あらゆるものを包み込んでいる。遠くにあるものも、遠近は相対世界のことであって、無限者としての「道」にとっては至る所一つことであって近くである。「為すなくして、為さざるはなし」という、何の計らいもなく限りなくものを生み出し、全てを包み込んでしまうのが「道」である。

 無限大のことを「多い」と考えるのは誤りである、多というのは、そこに集まる個物がそれぞれ独立性を持っていて、それを集計する場合であるが、無限大では個物は独立性を失い、差別をなくして、一つに溶け合ってしまう。「道」を一というのは、多を否定して一に至る、更に言えば個物の規定性を無にしたところから一が生じ、多を生む。無から万能の働きがあらわれるのである。「天下の万物は、有より生じ、有は無より生ず」           

(以上、岩波文庫「老子」竹内義雄訳注、参照)

A     荘子

「無」が万物の始めであるなら、その無がなかった、さらに始めがあるはずで、これでは無限後退となる。だから「始めの無」という固定した「無」ではなく、何の限界もない無、有とも区画をもたない“無”としての「無限」でなければならない。それは「あたかも鏡のようである。去るものは去るに任せ、来るものは来るに任せる。相手の形に応じて姿を映すが、しかもそれを引きとめようともしない」「虚無恬淡であれ」(応帝王篇)「万物をば、ことごとく、然りとし、是をもって相蘊む」(斎物論篇)現れを見よう、聴こうなどという私心があれば、心に引きずられて、真実は映らない、「五声は耳を乱す」(天地篇)現われのままに映す、私を去らしめるのである。“今まさに、ここで直ちに知る”には“今まさに、直ちに現れた事物”と瞬時に対応しなければならない。私の心(これは「ことば」でしか表せないが)で捉えようとすることは(「ことば」にしていては、即ち「分け」ていては)後追いとなって間に合わない。武道書でしばしば引用される包丁説話(話のあらましは武道愛好家には熟知だろうから略)では「私はふしぎな働きで事物の現れに「遇う」かのように対応していて、例えば目という特定の感覚器官で見るということをしていません。特定の感覚器官の偏った知が止んで、心抜きの神の欲のごときふしぎが働いているばかりです」(養生主篇)ここでいう神の欲とは天の神の欲望などではなく、特定の感覚器官に特化するような心をしりぞけて、身体のあらゆるところに直ちに通じる知の働きの“ふしぎ“のことである。(以上、中公文庫「荘子」森三樹三郎訳注、参照)

 

仏教

 インドのゴータマ・ブッダ(BC466出生)が開いた「覚った人(仏)になることを説く教え」である。教説は多岐にわたるが原始仏教から大乗仏教、インド、中国から日本にいたる仏教の中心思想といえば“縁起説”である。

 全ての存在は縁(相互作用)によって起こっている“あらわれ”(現象)である。それ自身で存在しつづけるものは何もない。「それ自身で存在しつづけるもの」を“実体”というから、世界(宇宙)には実体としての個は存在しない(空)のだが、全ては“つながり”(縁)によって起こる。“全てはつながっている(一如)”から「一つ」なのだ。

 私の学生時代(昭和30年代前期)は仏教の基本図書といえば宇井伯寿博士の「仏教汎論」を始めとし「印度哲学研究」12巻(いずれも岩波書店刊)であった、旧漢字に馴染みがないと読みにくいだろうから現在では上記の諸著の索引を作成された中村元博士の「中村元選集」(春秋社)が読み安いだろう。              (この項さらに続く)

 

実技演習

@     半身半立ち四方投げ

A     片手取り四方投げ(立ち技 以下同様)

B     交差取り四方投げ

C     正面打ち四方投げ

D     肩取り四方投げ

E     後両手首取り四方投げ

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